1886年、シーグフリード・サスーンはアラブの石油で巨万の富を築き、数多くの芸術家を輩出したユダヤ系大富豪の家系に生まれた。大学を卒業後、彼はロンドンで紳士詩人としての生活を送り、いくつかの詩集を自費出版している。その後、イギリスがドイツに対して宣戦布告する2日前、サスーンはロイヤル・ウェールズ・フュージリア連隊に仕官し、第一次大戦では中尉としてフランスの前線へ派兵された。彼はこの戦いで「マッド・ジャック」の異名を与えられるほどの向こう見ずな戦いぶりを披露し、ドイツ軍による激しい銃撃を潜り抜け、負傷した仲間の兵士を救出したことから戦功十字勲章を獲得している。また、この大戦の有数の激戦地として数えられるソンムでも、ドイツの塹壕を1人で制圧してみせたのだった。
しかし1916年の夏、サスーンは前線でのストレスに倒れ、治療のため数ヶ月間イギリスに送還されていた。その間、彼はこの戦争で兄を失い、剛直な政治家や戦争から利益を得る商人たちによって戦いが意図的に引き伸ばされていることを確信するようになる。そして彼は自らの十字勲章を投げ捨て、戦争責任者を紛糾する公開質問状を発表したのだった。結局、この騒動によってサスーンは戦争神経症と診断され、精神病院に入れられてしまう。そしてこの年の末には前線に復帰するが、翌年春には再び重傷を負い、治療のため再度送還されるのだった。このとき彼は肉体的な損傷と同様に精神的にも深い傷を負っており、自分の周りに無数の死体が横たわっている幻覚に悩まされていたという。やがて1917年末には任務に復帰するが、その翌年には頭に被弾し、一命は取り留めたものの、二度と兵士として働けない体となってしまうのだった。
戦後、彼は社会主義者や平和主義者たちの理想を積極的に支援し、戦争詩人の第一人者として多数の詩集や回顧録を出版した。サスーンの代表作「逆襲」は戦争を風刺した反戦詩集として有名であり、「歩兵士官回顧録」は第一次大戦における最も優れた個人記録の1つである。
ソンムで休暇を得たインディは、仲間がイギリス兵たちと口論になったことからテニスの親善試合を行う羽目になる。このときの相手の1人がサスーンであり、彼はグレイブスと共にインディに自分の詩を読ませ、彼の文学的センスをテストするのだった。その後、彼らは3人でワインを飲みながら戦争について話し合い、サスーンはこの戦争が実業家たちを肥やし、喜ばせているだけだという持論を展開したのである。
ロバート・グレイブズは最も多才で多作なイギリス人作家である。彼は詩の読み書きを愛する物静かな少年として成長し、若い頃に記した愛や戦争をテーマとした詩こそが、彼の最高傑作だとされている。事実、彼の歴史小説「この私、クラウディウス」や「神、クラウディウス」は一般向けテレビ番組として改作もなされたが、激しい批判に晒されたのだった。その後もグレイブズは執筆活動を続け、歴史や伝説をフィクションとして再想定した作品を数多く発表している。同様に、彼は「白い女神」や「ギリシア神話」全二巻に見られるような、神話学的な詩の起源に関する研究でも著名な存在だった。
また、グレイブズはロイヤル・ウェールズ・フュージリア連隊に仕官し、第一次大戦の初期には多数の任務に従事していた。だが、ドイツ人の親戚がいたことから周囲の人々に信用されず、彼は戦場でも多くの時間を詩の読み書きに充てていたという。そして1915年、ドイツ軍による神経ガス攻撃で負傷したグレイブズは、一時的に感情を閉ざしてしまうのだった。だがその後、彼はシーグフリード・サスーンと出会い、詩を共著するなどして親交を深めていく。彼の最初の詩集が出版されたのもこの年だった。
そして1916年初頭、グレイブズは一時的に塹壕戦を経験し、夏にはソンムで戦っている。しかし、そこでも重傷を負い、再びイギリスへと送還されるのだった。戦後、彼はオックスフォードに移住し、詩人、小説家、批評家、自伝作家、エッセイスト、翻訳家として働きながら余生を過ごす。代表作「さらば古きものよ」は第一次大戦の回顧録としては最も優れた作品の1つとされており、またオックスフォードで出会った親友T.E.ロレンスの伝記「アラビアのロレンス」もグレイブズの名著である。
ソンムの塹壕戦で休暇を得たインディはイギリス兵たちとテニスの試合を行い、そのときの相手の1人がグレイブスだった。グレイブスとサスーンはインディに詩を読ませ、彼の文学的センスをテストする。だが、グレイブスはサスーンよりも先に神経症の兆候を見せており、サスーンがこの戦争の無意味さを語っても、自分の戦いへの信念を優先するのだった。
1890年、シャルル・ド・ゴールはフランスのリールで、敬虔なカトリック教徒であり偉大な学者でもある父と、裕福なブルジョワ階級の母との間に生まれた。父は政教分離を謳う当時の第三共和制に反対しており、シャルルをイエスズ会の運営する学校で学ばせる。その後、軍人を多く輩出したド・ゴール家の伝統に従ってシャルルも軍人を志し、サン・シール・コエトキダン陸軍士官学校へと進学した。そして、卒業後はフランス陸軍歩兵第33連隊に少尉として任官し、ペタン大佐の指揮下に入る。軍内部では、攻撃優先主義のド・ゴールと防衛優先主義のペタンとで戦術思想に対立も生じていたが、両者共にカトリックの思想を背景とした民族主義という点で政治的立場を共有しており、傲慢さから評判の悪かったド・ゴールをペタンが庇護する場面も多かった。また、ド・ゴールは10代のころから執筆活動においていくつものコンクールで賞を獲得しており、軍に入ってからも戦術に関する著書を数多く発表している。彼は決して士官学校を良い成績で卒業したわけではないが、こうした著書の評価とペタンの援助によって陸軍内部における出世レースに踏みとどまることができたのだ。
その後、ド・ゴールは歩兵として第一次大戦に参加し、数度にわたる負傷の末、1916年にベルダンでドイツ軍の捕虜となってしまう。そして彼は5回におよぶ脱走を試みたがいずれも失敗し、ついに脱出不可能とされるインゴルシュタット捕虜収容所へと送られることになる。結局、ド・ゴールはこの戦争の大半を収容所で過ごすことになり、その間、他の捕虜たちにフランス語や戦術、歴史などの講義を行っていた。このとき彼は機械化された戦車やその他の近代兵器の可能性を予見しており、それらは実際に第二次大戦で使用されることになる。やがて終戦と共に釈放されると、彼は外国や自国で軍事教官を歴任し、その後、かつての上官であるペタン元帥の推薦によってフランス国防会議の事務局長に就任した。ド・ゴールはこの席でフランス軍の近代化を強く訴えたのである。
そして第二次大戦では彼は陸軍少将となり、第五機甲師団の司令官として活躍した。この戦争ではナチス・ドイツの猛攻によってパリが陥落し、ド・ゴールもイギリスへと逃れたが、敗北を認めようとしない彼は自由フランスと呼ばれる亡命政権を宣言し、和平を推進するペタンと当時のビシー政権を暗に批判する。彼はラジオでフランス国民に徹底抗戦を訴え、この演説によって国民からの絶大な支持を得たのである。このときアメリカのルーズベルト大統領はド・ゴールを徹底的に無視していたが、1944年、ノルマンディ上陸作戦での勝利によってパリが解放され、彼が救国の英雄として凱旋すると、その翌年にアメリカ、イギリス、ソ連の各国はド・ゴールによる臨時政権(第四共和制)を承認するのだった。
その後、彼は一時的に政治の世界から身を引くが、1958年にフランス国内でアルジェリア危機が勃発すると、この状況を適切に処理できる唯一の指導者として復帰を促され、翌年、大統領として現在まで続く第五共和制を樹立した。この間にド・ゴールはアルジェリアの独立を許し、多くの植民地主義者から反感を買うが、同時にフランスの国連常任理事国入りを果たすなど、国威を完全に復活させることに成功し、政治経済の安定に大きく献身する。そして1969年、国民投票に敗れたため彼は政界から完全に引退し、その翌年に死去したが、現在でもシャルル・ド・ゴール空港をはじめとして、駅名や地名などに彼の名は数多く残されている。
脱走に失敗し、インゴルシュタット捕虜収容所に送られたインディは、先に収監されていたド・ゴールと出会った。ド・ゴールはインディのフランス語の訛りから即座に彼がアメリカ人であることを見抜いてしまう。その後、2人は脱走計画を立案し、ロシア人たちの死体と入れ替わって要塞からの脱出に成功するが、ド・ゴールは再び追っ手に捕まってしまうのだった。
マイナーツァーゲンは1887年、イギリスの裕福な家系に生まれたシオニストである。彼は兄ダニエルと共に生物学、特に鳥類学に多大な関心を抱いており、家族が営む銀行業にはまったく興味がなかった。そのため、後継者になるはずだった兄が若くして死んだときも、跡取りから逃れるため軍に志願することを決めたのである。彼は1899年に第25ロイヤル・フュージリア連隊に入隊し、2年間インドに配属されていた。だが、マイナーツァーゲンはバードウォッチングなどで常軌を逸した行動をとる癖があるため厄介者として扱われ、ついにはキング・アフリカ・ライフル部隊を志してアフリカへの転属を志願したのだった。アフリカにおける彼の任務は、イギリス支配に対する原住民たちの反乱を抑えることである。だが、マイナーツァーゲンは日ごろから白人による植民地政策にも反対を唱えており、アフリカの人々を愛するとともに、彼らの勇気を賞賛していた。だが、その一方で彼は帝国主義への支持を貫いており、ときには冷酷に自分の仕事を遂行していたのである。
その後、マイナーツァーゲンは3年間にわたって南アフリカに駐留し、広大なスパイ・ネットワークを築き上げた。彼はアフリカに展開するドイツ軍をつぶさに観察し、その成果を後の戦いに利用していたのである。第一次大戦ではアフリカにおけるイギリス軍諜報部の司令官を務め、防諜活動で数々の驚異的な成功を成し遂げた。また、ときには自らも危険な偵察任務を敢行したもある。その後、彼は中東に移り、そこで知り合ったT.E.ロレンスと親交を深めることになる。このとき2人はイギリス軍によるエルサレム奪回の足がかりとしてベエルシバ攻略を提言し、ドイツに味方するトルコ軍に、ベエルシバ侵攻は陽動作戦であり、本当の目的はガザであると信じ込ませる作戦を展開した。結果的に作戦は成功し、連合軍はほぼ無傷でベエルシバを占領することができたのである。
そして終戦後、彼は軍の顧問としてロレンスと共にパリで開かれた講和会議に出席し、パレスチナにおけるシオニズムの復興に多大な貢献を果たした(これは後にイスラエルの建国へと繋がる)。晩年は、これまでに収集した鳥類などに関する多くの研究日誌の整理に明け暮れ、鳥類学に関する文献2冊を含む4冊の本を出版している。また、イギリス自然史博物館にも多くの剥製や標本を寄付し、それらは今日でもマイナーツァーゲンの寄贈品として保存されている。こうした功績によって、彼は様々な爵位や称号の授与を打診されたが、一個人として研究を続けることを望み、すべて断ったとされている。
アフリカで列車の乗り違いから迷子になったインディは、旧知の仲である老兵ズルー大尉に騙され、ドイツ軍の幽霊列車の爆破任務に駆り出された。この作戦を指揮していたのがマイナーツァーゲン少佐である。その後、彼は旧友ロレンスの紹介でスパイとしてパレスチナに呼び出されたときも、少佐の奇想天外な作戦に協力させられたのだった。マイナーツァーゲンはインディの手腕を高く評価しているが、インディは少佐のことを無茶な作戦ばかり立てる変人だと言い捨てる。だが、少佐はその汚名が敵にも知られていれば好都合だと答えたのだった。
1870年、ドイツで生まれたプロシア人将校のレトー=フォルベックは、彼の時代で最も優れた軍事指導者の1人として認識されている。彼は1901年に中国で起こった義和団の乱で初めて海外に派遣され、その後も西アフリカのドイツ領カメルーンに駐留し、南西アフリカでは原住民の反乱を鎮圧した。そして第一次大戦が勃発すると、レトー=フォルベックはドイツ領西アフリカに展開するドイツ軍の司令官に任命される。この戦いにおける彼の戦歴はまさに伝説的だった。わずか2,000の手勢でスペイン国土の2倍の領地を防衛しなければならないという過酷な状況のもと、レトー=フォルベックは迅速な動きと卓越したゲリラ戦術で幾度となくイギリス軍を翻弄したのである。その中で彼は往年のライバルであるイギリス軍のクリスチャン・スマッツ将軍とも、数々の歴史に残る名勝負を繰り広げた。ときには戦術的撤退を敢行したこともあるが、決して捕虜となることはなく、敗北も経験していない。彼は身を潜めながら兵士たちを行進させて内陸部へと向かい、ついにはポルトガル領の東アフリカにまで到達している。そのリーダーシップと驚くべきスタミナは味方だけでなく敵からも尊敬を集めたのだった。
戦後、レトー=フォルベックは疲弊した生存者たちと共にベルリンに凱旋し、勝利パレードを行った。彼によって命を奪われたイギリス兵の数は実に60,000人とも言われている。その後、レトー=フォルベックはドイツ国内で政治家としての道を歩むことになるが、後に権力の座に就いたヒトラーの台頭に反対したため、その政治生命を絶たれてしまう。かつては部下からの絶大な信頼を受け、アフリカの英雄とまで言われた伝説の司令官も、最終的には第三帝国から嫌悪の対象とされ、植木屋として生計を立てる貧しい男に落ちぶれたのだった。
アフリカでドイツ軍の幽霊列車の爆破工作を終えたインディは再びズルー大尉に騙され、レトー=フォルベック大佐の捕獲任務に駆り出されてしまう。そこでインディとレミは偶然にも大佐を拉致し、気球でドイツ軍の野営地から逃れることに成功するのだった。この奇妙な旅の途中、フォルベックはインディとレミの兵士としての資質のなさを嘆き、2人に軍人としての心構えをレクチャーする。最後はドイツ軍が現われ立場が逆転するが、彼は2人の若き兵士に敬意を払い、無事に解放するのだった。
1870年、ジャン・クリスチャン・スマッツは南アフリカのケープ・コロニー州マームズベリーで、ボーア人の家系に生まれた。そして1886年にはステレンブーシュのビクトリア大学に入学し、5年後にはケンブリッジ大学へと進学するなど、華々しいキャリアを獲得する。その後、95年に祖国南アフリカへ戻り、98年には当時のクーガー大統領に認められて州知事に任命されている。その翌年、彼はイギリスでの市民権を放棄してイギリス軍を相手に第二次ボーア戦争を戦い、見事なゲリラ戦を展開して野戦司令官としての才能を開花させた。この戦いを通じて、スマッツはルイ・ボタ将軍との深い友情を築き上げ、戦争には敗れたものの、聡明な閣僚の1人として名を馳せる。だがその後、彼は大英帝国による南アフリカ統治に賛同する側へ回り、1910年、イギリスの植民地政策による南アフリカ連邦が樹立されると、国防大臣として連邦防衛軍の設立に尽力した。これ以降、スマッツは一転して無慈悲な一面を見せるようになり、ガンジーによるインド人入植地や、イギリスとの同盟に反対する国民への弾圧によって多くの反感を買うことになる。
そして1915年、第一次大戦が勃発すると、イギリスの宣戦布告を受けてスマッツも即座に支援を表明し、自らも将軍としてドイツ領南西アフリカ(現ナミビア)でドイツ軍と対峙した。彼はここでゲリラ戦の名手レトー・フォルベック大佐と幾度となく歴史的な名勝負を繰り広げることになる。また、戦後は南アフリカの代表としてパリの講和会議に出席し、ベルサイユ条約に署名した。そして1919年、盟友ボタの死去に伴い、スマッツは南アフリカ連邦の首相に就任したのだった。その後、彼は一時的に首相の座から退くが、1933年に金本位主義が崩れ去ると、副首相に任命され、ナチス・ドイツを批判すると共に、シオニズムを強く支持し、パレスチナにおけるユダヤ人の入植問題に尽力する。そして第二次世界大戦が勃発すると再び首相に就任し、同時に連合軍の元帥としてこの戦争で大きな役割を担うことになる。こうしてスマッツは、二度の世界大戦で双方の平和協定に著名した唯一の人物という珍しい経歴を手にしたのである。
また政治の世界から離れたところでは、彼は哲学者としても有名であり、多くの著書を記している。彼の提唱する全体主義(ホリズム)は当時の先端科学である相対性理論や量子力学からも強い影響を受けており、その思想は現在でもなお哲学者たちの間で大きな影響力を維持している。
スマッツは1948年に総選挙で敗れ、その2年後に死去した。やがてこの政変は、南アフリカにおけるアパルトヘイト(人種隔離)政策の幕開けを告げることになる。
アフリカ戦線に配属されるや列車の乗り違えで迷子になってしまったインディは、10年ぶりにズルー大尉と再会し、彼の上官であるスマッツ将軍のところへ連れられていった。だが、そこで言い渡されたのはドイツ軍の幽霊列車を爆破するという任務だったのだ。インディはしぶしぶながらも任務を成功させ、スマッツを喜ばせたのである。
バーテルミー・ボガンダは1910年、フランス領赤道アフリカ(FEA)のバンギー近郊で、ウバンギ族の中でも少数派のムバカ族の集団の中で生まれた。彼はまだ幼い頃に母親を失い、カトリックの宣教師たちによって引き取られた後、1920年に洗礼を受けている。当時、司祭になることはウバンギの人々に対して開かれた唯一の道だったため、宣教師たちはボガンダの教育を受け持ち、彼をベルギー領だったコンゴの神学校へ、その後はカメルーンへと送ったのだった。そして1938年、任命を受けたボガンダはウバンギ族として初の司祭となり、FEA内の4つの植民地の1つ、ウバンギ・シャリへと戻ったのである。
第一次大戦当時から、ウバンギ・シャリはフランスによる植民地政策を積極的に支持しており、フランスとは友好的な関係にあった。しかし、第二次大戦ではフランス本国がドイツ軍に降伏したため、各国の植民地も徹底抗戦を訴えるシャルル・ド・ゴールの自由フランス派と、休戦をやむなしとするビシー派に二分されてしまう。だが、ウバンギ・シャリは最終的に政権の座に就いたド・ゴールを支持していたため、戦後も親フランスの立場がいっそう強まり、1946年には自治議会の設立ならびにフランス本国への代表派遣が許可されたのだった。同年、ボガンダも農民たちの支持を受けてフランス国民議会に選出されているが、その一方で強制労働が撤廃されたとはいえ黒人差別が根強く残っていたのも事実である。ボガンダは左翼政党である民主共和運動に加わり、黒人に白人と同等の権利を求めるための積極的な活動を行った。彼はフランスの植民地政策の濫用を改善するよう努力し、各地で演説を行うと共にいくつかの本を出版したのである。
1949年になると、ボガンダは黒アフリカ社会進歩運動(MESAN)と呼ばれる新しい大衆政党を組織し、平和的かつ前進的な方法で黒人社会の発展と解放を訴えた。やがてこの運動は世界中の黒人を統合するべく、アフリカ全体へと広がることになる。そして1957年、MESANがウバンギ・シャリで第一党となり、その翌年にはフランスから制限付き自治権を与えられ、中央アフリカ共和国が誕生した。FEAの4ヶ国統一こそ果たせなかったものの、ボガンダは中央アフリカの初代大統領に就任する。だが、フランス本国には黒人であるボガンダへの嫌悪感もあり、彼の信用を失墜させようとする工作も多数行われていた。そして1959年、ボガンダは翌年に迫った中央アフリカの完全独立を目にすることなく飛行機事故によって帰らぬ人となる。後にこの飛行機からは爆発物も発見されており、暗殺だという説も根強いが、真相は不明のままである。
ケープ・ロペスへ向かう過酷な任務の途中、インディの一行は伝染病によって全滅した村から唯一の生存者である幼い男の子を発見した。指揮官のブーシェ少佐は感染源となることを恐れてこの少年を見捨てるよう命令するが、少年と同じウバンギ族のバーテルミー軍曹はそれを無視して彼を同行させ、インディも彼に同調する。結局、ブーシェとバーテルミーは死亡するが、少年は陰性だったことが分かり、インディは彼にバーテルミーの名を与えてケープ・ロペスの宣教師に託したのだった。
人道主義者として現在でも世界中で尊敬されているアルベルト・シュバイツァーは、1875年、ドイツとフランスの紛争地だったアルザスで牧師の息子として生まれた。彼は10代の頃からパイプオルガンを通じてバッハの音楽に親しみ、高校を卒業後はストラスブール大学で哲学を学んでいる。そして21歳にして哲学と神学の分野で博士号を取得するなど驚くべき天才振りを発揮し、芸術学を極めながら、「カントの宗教哲学」や「ヨハン・セバスチャン・バッハ」など、いくつかの著書を残したのだった。また、オルガン演奏に関する著書も発表しており、自身もバッハ協会のオルガニストとして多数のリサイタルを開催している。そして30歳を迎えると、彼は一転して医学の道を歩みはじめ、38歳で医学博士となった。このとき彼は家族に医者になると告げ、黄熱病やマラリアに苦しむ黒人たちの治療に専念するためアフリカへと渡る決意をする。ほぼ同時にシュバイツァーは看護婦であり学者でもあったヘレーネと結婚し、著書の印税やリサイタルで得た資金をもとに、フランス領赤道アフリカのガボンに自分たちの病院を設営したのである。
1913年、シュバイツァーの病院はアフリカ大陸の大西洋岸からオゴウエ川を200マイル上流へ向かったところにあるランバレネに位置していた。彼はここで布教活動を行い、名著「生命への畏敬」を記すと共に、地元の原住民たちに医療活動を行っていた。彼は麻酔を使った手術という原住民たちにとって未知の手法を実践したことから、オガンガ(命を与奪する者)と呼ばれるようになる。だが第一次大戦最中の1917年、ドイツ人であったことを理由にフランス政府は彼を自国領であるガボンから強制退去させ、シュバイツァー夫妻は終戦間近まで、フランス本国に拘留されてしまう。その後1923年まで、彼はヨーロッパ中で執筆と講演活動を行い、「文明の哲学」を初めとする多数の著書を出版した。そして1924年、夫妻は再びランバレネに戻ったが、既に当時の病院はジャングルに埋もれており、再建からの出発を余儀なくされたのだった。その後もシュバイツァーは晩年に至るまでアフリカで医療活動を続けており、信頼できる助手を得ると、一時的にヨーロッパに戻って意欲的に講演活動も行っていた。そして原爆の投下によって第二次大戦が終わったことを知ると反戦活動にも精力を費やすようになり、1952年にはノーベル平和賞を受賞している。そして1965年、生涯をアフリカでの医療活動に捧げて亡くなった密林の聖者は、第二の故郷ランバレネに埋葬されたのだった。
武器を回収するためアフリカ大陸を横断するという過酷な任務を受けたインディの一行は、往路でブーシェ少佐を含む多くの兵士を失ってしまう。だが、フランス軍の協力は得られず、満身創痍の少人数で帰路につくことになった。このとき死の淵に立たされていたインディを救ったのがシュバイツァー博士である。博士はインディに治療を施し、戦争の愚かさと生命の大切さを説くが、彼の目の前でフランス軍によって強制連行されてしまうのだった。