歴史上の人物ガイド

T.E.ロレンス Thomas Edward Lawrence

生没年:
1888-1935
職業:
考古学者、軍人
登場話:
1、15、19
キャスト:
ジョセフ・ベネット、ダグラス・ヘンシャル

後に「アラビアのロレンス」として知られるようになる英雄T.E.ロレンスは、1888年にノースウェイルズのトレマドッグで生まれた。その後、8歳のときにオックスフォードに移住し、地元の高校を経てジーザズ・カレッジへと進学する。そこで考古学を選考したロレンスは、在学中から中世ヨーロッパの城に興味を抱き、城塞の見学のため故郷のウェイルズやフランスへの自転車旅行を行っていた。また、シリアへの徒歩旅行も敢行し、十字軍が後にヨーロッパの軍事建築に与えた影響について研究を行っている。この成果は後に卒業論文としてまとめられ(さらに後には「十字軍城砦」として出版もされた)、彼はこれによって大学を最高学位で卒業したのだった。その後もロレンスは大学院で考古学を学び続け、ついには考古学者としてエジプトやシリアで本格的な発掘活動に着手する。そして1914年、第一次大戦が勃発すると、彼は考古学で得た知識を戦争に役立てるため、イギリス陸軍の地図課に文官として従事した。だが、この年の終わりに連合軍がオスマン・トルコに宣戦布告すると、アラビアの言語や慣習に精通していることを買われ、カイロにある情報部へと転属させられる。彼はそこで諜報員として働き、1916年にメッカでアラブの反乱が開始されると、親友となったファイサルと共にベドウィン族の部隊を指揮し、アラブ人による独立国家の樹立を目指して、トルコ軍との命がけの戦いを繰り広げることになる。そして1918年にはアカバ、デラアを陥落させ、ついにダマスカス入城を果たすと、悲願だったアラブ人政府の樹立を成し遂げたのである。

しかし、イギリス政府はアラブの独立を保障したフセイン・マクマホン書簡と同時に、フランスとの間で中東地域を分割植民地化するというサイクス・ピコ協定を秘密裏に結んでいた。石油資源が目的だった両国には、はじめからアラブの自治独立を許すつもりはなかったのである。ロレンスは祖国の欺瞞に苦悩しながらも、ファイサルを伴って戦後のパリ講和会議に出席するが、自由なアラブを求める彼らの主張は形式的にしか受け入れられなかった。失意のままダマスカスへ戻ったファイサルは、1920年にシリアの国王となって独立を宣言するものの、その直後にフランス軍による占領を受け、追放されてしまう。このころアラブを裏切ったという自責の念に駆られていたロレンスは、軍を退役して後の名著「知恵の七柱」の執筆に取り組んでいたが、ウィンストン・チャーチルの要請にしたがって新設された中東局に招聘され、アラブ問題の顧問として中東政策に取り組むようになる。そしてファイサルを国王とするイラク王国の樹立に尽力することでアラブとの約束を果たすが、結局はイギリス政府による中東政策に不満を抱き、1922年に政府顧問を辞任したのだった。

その後のロレンスは過去の名声を隠そうとし、たびたび名を変えて空軍や陸軍へ一兵卒としての入隊を繰り返すなど、奇怪な行動が目立ち始める。この間に彼は「知恵の七柱」を出版したが、思うように売れ行きが伸びなかったため財政難に陥り、精神状態が悪化していたとも言われている。だが、その後の「砂漠の叛乱」の大ヒットによって経済的にも余裕が見え始め、様々な仕事が舞い込むようになった。しかし、彼は講演依頼や政府からの要請をことごとく断り、1930年代には軍で高速ボートの開発研究に従事する傍ら、趣味のオートバイに明け暮れていた。そして1935年、空軍を満期除隊した直後、ボビントン基地近郊で子供2人の乗った自転車とのオートバイ事故を起こし、意識不明の後、この世を去った。生前のロレンスがアラブ解放に果たした役割は大きいが、帝国主義の植民地政策に利用されただけだという見方があるのも事実であり、後世の彼に対する評価も偉大な英雄からペテン師まで様々である。

父の講演旅行で訪れた先のカイロで、ピラミッドに置き去りにされたインディ少年とシーモアを救ってくれたのがロレンスだった。彼はインディをハワード・カーターの発掘現場に招待し、互いの親交を深め合う。その後もロレンスは生涯の友としてインディとの文通を続け、第一次大戦でイギリス軍に従事していたときには、パレスチナにおける諜報任務に彼を推薦した。そして戦後のパリ講和会議でも、ロレンスはインディを通訳として招き、戦争の大儀とアラブ独立の是非について議論を交わすことになる。

パブロ・ピカソ Pablo Picasso

生没年:
1881-1973
職業:
画家
登場話:
2、14
キャスト:
ダニエル・ウェブ

パブロ・ピカソは1881年、スペインのマラガで生まれた。父親のホセ・ルイス・ブラスコが美術教師だったため、彼は7歳のころから絵画に親しみ、11歳で本格的にデッサンを学び始めるなど、非凡な才能を開花させている。その後、バルセロナのリョジャ美術学校、マドリードのサン・フェルナンド王立美術アカデミー付属学校を経て、1900年にパリに進出した。そしてその翌年、彼は友人の死をきっかけに「青の時代」と呼ばれる時期に突入する。これはこの時期のピカソの作品群の総称にもなっており、背景に貧困や悲しみを象徴する青を多用した悲壮感溢れる作品が多いことがその名の由来である。そして1904年、ピカソはパリでの定住を決意し、モンマルトルのアトリエに入った。その翌年からは「バラ色の時代」と呼ばれる時期がスタートする。この時代の作品は「青の時代」の作品に比べて温かみのある色彩が多く使われており、題材においても一転してサーカスや旅芸人などの娯楽的要素が強くなっている。

そして1907年、ピカソは「アビニヨンの娘たち」を発表し、美術界に大論争を巻き起こした。人物、静物、風景などのすべての要素を立方体を中心とした単純な要素に分解し、複数の視点から再構築するという手法は立体主義(キュービズム)と呼ばれ、ピカソとその友人であるジョルジュ・ブラックがセザンヌの思想を追求した結果として完成させたものである。この立体主義はブラックが第一次大戦に出征したことで彼とピカソの5年間におよぶ共同制作時代が終わると同時に終焉を迎えたが、その後も絵画のみならず、建築や彫刻の分野にも大きな影響を残している。事実、「キュービズムの時代」以降のピカソ作品にも立体主義的モチーフの作品は多く存在し、現在でも良く知られたピカソによる抽象画は、そのほとんどが「キュービズムの時代」以降に描かれた作品なのだ。

1918年ごろからのピカソは、立体主義によって封印されていた柔らかなモチーフを復活させ、抽象性を廃した「新古典主義の時代」へと突入した。そして1937年、彼はスペイン内戦でのナチスによる空爆に抗議し、被災地の名を冠した「ゲルニカ」を発表する。その後、内戦が終わりフランコによる独裁政権が発足すると、彼はついに祖国と決別し、フランコを風刺する作品など、反戦色の濃い作品を多く手がけるようになっていった。彼はその後も自由奔放な創作活動を続け、晩年には版画、彫刻、陶芸にも意欲的に取り組んでいる。そして90歳を迎えた1971年にはルーブル美術館でピカソ展が開催されたが、彼が死去したのはその2年後のことである。ピカソがその生涯を通じて作り上げた作品は実に8万点にもおよぶとされており、彼の作品を多く収蔵する施設としては、バルセロナとパリにそれぞれ設立されたピカソ美術館が有名である。

1908年、インディ少年はパリの酒場で画家たちが論争している現場に出くわしたが、そのなかの1人がピカソだった。ピカソは立体主義を批判するエドガー・ドガと対立し、彼の贋作を作ってドガに恥をかかせることに成功する。また1917年、スパイとしてバルセロナに入ったインディは、偽装工作のための職探し中にピカソと再会する。このとき彼はインディにバレエ団での仕事を斡旋してくれたのだった。

セオドア ”テディ” ルーズベルト Theodore "Teddy" Roosevelt

生没年:
1858-1919
職業:
政治家
登場話:
2
キャスト:
ジェームズ・ギャモン

テディの愛称で知られるセオドア・ルーズベルトは、1858年、ニューヨークの名門の家庭に生まれた。彼は若いころから学業、スポーツ共に万能で、22歳でハーバード大学を優秀な成績で卒業すると、その翌年には共和党員となってニューヨーク州議会議員に選ばれた。一方で、狩猟を好む血気盛んな人物としても知られており、1897年に海軍次官に就任すると、海軍の増強および近代化に着手し、スペインからの独立を望むキューバを支援する。結局、このときの軍事介入によってアメリカ・スペイン戦争が勃発することになるが、彼は次官を辞して義勇騎兵隊を組織し、自らも戦闘に参加したのだった。この戦いでルーズベルトは大きな武功を挙げ、キューバの独立を勝ち取ると共にアメリカの国民的英雄となる。また、終戦と同時に彼は絶大な人気を背景としてニューヨーク州知事に当選し、大企業による独占の規制や自然環境保護に大きく貢献したのだった。

そして1900年、ルーズベルトは大統領選挙で共和党が勝利したことから副大統領に就任するが、これは彼の圧倒的な人気と革新的な政治姿勢を恐れた共和党保守派による事実上の左遷だったとされている。しかし、その翌年にマッキンリー大統領が暗殺されたことから、彼は史上最年少で大統領への昇格を果たすことになる。また、彼は新聞や雑誌を効果的に利用した政治手法から「メディアの大統領」と呼ばれるようになり、自動車、潜水艦、飛行機(これは引退後)に乗った最初の大統領にもなった。そして積極的な外交、独占規制、自然保護、パナマ運河の開通などに尽力したことから4年後の再選後を果たすと、日露戦争の講和を斡旋したことでアメリカ人初のノーベル平和賞を受賞し、日米紳士協約の締結にも携わったのだった。

1909年の引退後、ルーズベルトはアフリカ各地で趣味の狩猟に専念していたが、後に再び大統領を志すも、共和党内の指名選挙で現職のタフト大統領に敗れてしまい、それでもなお革新党を結成して立候補を断行したが、民主党のウィルソン候補に敗れてしまった。その後、ルーズベルトはアマゾンを旅行中に熱病を疾患し、後遺症に苦しみながらも革新党を解散して共和党に復帰した。だが、後遺症は予想以上に重く、1919年、近代アメリカの祖を築いた英雄は故郷のニューヨークでこの世を去る。セオドア・ルーズベルトの名は自然保護や海軍増強への貢献を称え、国立公園や空母の名として後世に残されている。また、有名なテディベアのぬいぐるみも彼の愛称がその名の由来である。

1909年、家族と共にケニアを旅していたインディ少年は、引退後のルーズベルトが主催する遠征隊のキャンプを訪れた。インディは彼から狩猟の基礎や自然の素晴らしさを学び、逆に元大統領はインディから食物連鎖をはじめとする自然界のバランスの重要性を教えられることになる。

フレデリック・ズルー Frederick Selous

生没年:
1851-1917
職業:
ハンター、軍人
登場話:
2、10
キャスト:
ポール・フリーマン

1851年、イギリスで生まれたフレデリック・ズルーは、旅行や冒険に関する本を読んで少年時代を過ごしていた。彼はこの頃からサファリで珍しい動物を狩猟したいという願望を持っており、特に鳥や蝶に強い関心を抱いていた。そして1870年、彼は南アフリカ、コンゴ盆地、ローデシアなどを経て、広範囲にわたる冒険の旅に出たのである。そこでズルーはハンターとしての経験を積み、何冊かの本を出版することでアフリカにおける博物学および狩猟の専門家としての名声を獲得した。また、1890年代には現在のジンバブエを探検し、マタビーリ戦争に関する文献を出版している。こうしてズルーはアフリカで数多くのサファリを主導する最初の白人ハンターの1人となり、1909年にはテディ・ルーズベルト元合衆国大統領の主催する有名な遠征隊にも参加したのだった。

やがて第一次大戦が勃発すると、アフリカも激戦地となり、当時65歳だったズルーは狩猟で鍛えた腕を試すため戦うことを決意する。イギリス軍もズルーのアフリカにおける専門的知識に期待を寄せ、第25ロイヤル・フュージリア連隊への参加を許可したのだった。事実、ズルーの勇敢さ、大胆さ、そして体力は、多くの若い兵士たちを驚かすことになる。そして彼は数多くの戦いに参加し、やがては大尉に昇進したが、1917年1月、ついにドイツ軍の狙撃兵の放った銃弾によって名誉の戦死を遂げたのだった。ズルーはその波乱の生涯の中で数多くの野生生物を狩猟し、それらの標本を様々な博物館に寄贈している。彼の功績はその後の民族学の発展にも価値ある貢献を残したのだった。

家族と共にアフリカを旅行していたインディ少年は、父の友人の紹介でテディ・ルーズベルトの遠征隊を訪ね、ズルーと出会う。ズルーは草原で迷子になったインディの捜索に協力し、オリックスの狩猟でハンターとしての腕前を披露した。そして10年後、またしてもアフリカで迷子になったインディは、偶然にもイギリス軍の野営地でズルー大尉と再会する。このときズルーはインディを無理やり危険な任務に巻き込み、老兵の健在振りを見せ付けた。彼は500メートル先にあるダイナマイトにライフルの弾丸を命中させたのだ。

エドワード・ストラテマイヤー Edward Stratemeyer

生没年:
1862-1930
職業:
小説家
登場話:
6
キャスト:
リー・リベリー

エドワード・ストラテマイヤーは子供向け推理小説の著者として有名であり、その異常なほどの出版ペースから、文学マシンの異名で知られたほどである。彼は数多くのペンネームを使って、実に125の異なるシリーズにわたる1300冊もの児童小説を世に送り出したのだ。だが実際には、その多くがストラテマイヤーの指示のもとで執筆作業を行ったゴーストライターたちによる作品である。彼は1906年にストラテマイヤー・シンジケートと呼ばれる作家組織を旗揚げし、多数の作家を雇うと共に、自前で版権管理などを行う近代的な出版企業としてのビジネス・モデルを個人でいち早く確立していたのである。ストラテマイヤーの作品群は当初からそれほど絶大な支持を得ていたわけではないが、それでもアメリカ文化の歴史を代表する古典作品群であることに変わりはなく、多くの世代の人々に愛され、アメリカ国内だけでも累計2億冊以上を販売している。特に代表作の少女探偵小説「ナンシー・ドルー」シリーズは数多くの言語に翻訳され、世界中で5億冊以上を売っている。その他の代表作は「トム・スウィフト」、「ハーディ少年」、「ボブセイ・ツインズ」、「アウトドア・ガール」、「モーター・ガール」など。

ストラテマイヤーはインディの高校時代の恋人ナンシーの父親として登場する。インディとナンシーは両家共に公認の間柄で、インディもストラテマイヤー家で食事をするなど、家族同然の付き合い方をしている。インディはライバルのブッチにいい格好を見せるため、エドワードの愛車ブガティを借りてダンス・パーティに行こうとするが、ジェネレータが故障してしまい、これをきっかけにエジソン研究所での事件に巻き込まれることになる。また、インディは彼の小説の大ファンでもあり、ときには小説のアイデアを提供したりもしていた。

トーマス・エジソン Thomas Edison

生没年:
1847-1931
職業:
発明家
登場話:
6
キャスト:
リチャード・K・オルセン

トーマス・エジソンは歴史上、最も多くの発明品を生み出した天才の1人であり、当時の技術革新の中心人物の1人でもある。彼は白熱電球、レコード・プレーヤー、炭素式電話装置、動画プロジェクターなどの発明を含む、1,093個もの特許を取得した。また、エジソンはメンロ・パークに世界初の産業研究所を設立し、その後、ニュージャージー州のウエスト・オレンジにも同様の研究所を開設している。科学の発達に偉大な足跡を残したエンジソンだが、彼自身はほとんど学歴を持たず、基礎的な学問の知識はすべて母から得たものである。そのため、彼は自分のことを商業発明家と呼び、決して科学者を名乗らなかった。

当時のエンジソン研究所およびその工場は、多くの人々の利便性や喜びを増大させるであろう製品の開発を目指す、試行錯誤的な操業を行っていた。だが、今日では世界的に有名な歴史上の名所であり、謄写版印刷機、螢光透視鏡、アルカリ蓄電池、口述記録装置など、数多くの実用的発明を生み出している。一方で、近年ではエジソンが過去の名声にあぐらをかき、その後も他人の手柄を自分のものとしていたというのが有力な説である。

インディが壊れたブガティのジェネレータを修理のため持ち込んだのがウエスト・オレンジのエジソン研究所だった。だが、同研究所のトンプソン博士が目の前で暴漢に誘拐され、それどころではなくなってしまう。そこにエジソンも現われるが、彼は部下のトンプソンより盗まれた書類を心配するのだった。結局、事件はトンプソンの自作自演だったが、動機は自分の発明をエジソンに横取りされそうになったからだという。

フランシスコ ”パンチョ” ヴィリャ Francisco "Pancho" Villa

生没年:
1878-1923
職業:
革命家
登場話:
6
キャスト:
マイク・モロフ

メキシコの革命指導者であり、ゲリラでもあるフランシスコ・ヴィリャは、メキシコの独裁者ディアスに反発し、1909年に起こったマデロの反乱で初陣を飾っている。北メキシコの貧しい農家に生まれたヴィリャは、独学で読み書きを学び、兵士としての才能を開花させた。やがて彼は独自の軍隊を組織し、マデロの命令にしたがって行動したのである。その後、マデロはメキシコ大統領に就任し、ヴィリャを政府軍のウェルタ司令官の指揮下に配置した。だが、ヴィリャは意見の相違からウェルタと対立し、投獄されてしまう。マデロの計らいによって処刑は免れたものの、彼は再び投獄され、脱獄した後、アメリカへ逃亡した。後にマデロがウェルタによって謀殺されたことから、ヴィリャはウェルタへの憎しみを募らせ、両者の衝突は避けられない状況となった。そして、亡命先のアメリカから戻ったヴィリャは北部師団を組織し、ウェルタの軍と激突したのである。

やがてウェルタは失脚し、ヴィリャと共に戦ったカランサが大統領に就任した。だが、大地主の出身だったカランサはヴィリャをはじめとする農村部の勢力を政権から排除し、再び反目が生じることになる。ヴィリャは北部の山岳地帯に逃れ、政府軍に対するゲリラ活動を続けたのだった。そして1916年、アメリカがカランサ政権を正式に承認したことから、ヴィリャは報復としてニューメキシコ州のサンタイサベルでアメリカ人鉱山技師16人を殺害、その後もコロンバスを襲撃し、多数のアメリカ市民を殺害した。彼はカランサにメキシコ全土を支配する能力がないことを訴え、アメリカに武力で抗議したのである。その結果、彼はアメリカ軍からも追われる身となったが、アメリカは第一次世界大戦への参戦によって事実上ヴィリャ討伐から手を引くことになる。1920年には、カランサもヴィリャが政治に干渉しないことを条件に、彼との停戦に合意した。だが、1923年、再び革命が起こることを恐れた政府軍の暗躍があり、ヴィリャは暗殺されたのである。その後、彼はメキシコ革命史から無視され続けていたが、メキシコ北部の農村地帯では現在でも歴史的英雄としてパンチョ・ヴィリャの愛称によって親しまれている。

アメリカ・メキシコ国境で盗賊団(実はヴィリャの北部師団だった)を深追いし、処刑されそうになったインディを救ったのがヴィリャである。彼は部下たちに盗賊と戦士の違いを説き、革命家としての誇りを示したのだった。その後、インディは釈放されるが、ヴィリャの理想に共感し、革命軍に従事することになる。だが、結局はインディも革命が貧しい農村の人々に与える影響を目の当たりにし、メキシコから離れるのだった。

ジョン・J・パーシング John J. Pershing

生没年:
1860-1948
職業:
軍人
登場話:
6
キャスト:
ピーター・マリンカー

「ブラック・ジャック」の異名で知られるジョン・パーシング将軍は、アメリカ陸軍の名だたる名将の1人である。彼は1906年から1913年までの間、インディアン戦争、キューバ内戦、フィリピン暴動(スペイン・アメリカ戦争)に従軍し、さらには日露戦争での観戦武官も務めている。そして1916年には多数のアメリカ人を殺害したフランシスコ・ヴィリャを討伐するためのメキシコ遠征に参画し、翌年にはアメリカ遠征軍の総司令官として第一次世界大戦に参加した。だが、ヨーロッパではイギリス軍やフランス軍の指揮官らと対立し、フランスのクレマンソー首相もアメリカ政府に再三にわたって彼の更迭を要求している。だが、大戦中は連合軍に数々の劇的な勝利をもたらし、休戦後はドイツ国内に駐留した。後に「諸軍隊の将軍」という称号を受けている。

劇中では史実どおりパットンの上官として登場し、彼からヴィリャ軍の動向に関する報告を受けるが、既にデミトリアスからの密告を受けており、ヴィリャ軍の奇襲に対する待ち伏せを計画していた。これによってヴィリャ軍は撤退を余儀なくされることになる。

ジョージ・S・パットン George S. Patton

生没年:
1885-1945
職業:
軍人
登場話:
6
キャスト:
スチュアート・ミリガン

1885年、カリフォルニア州サンガブリエルで軍人の家系に生まれたジョージ・スミス・パットン・ジュニアは、1912年のストックホルム・オリンピックで近代五種に出場するなどの経歴を持つアメリカ陸軍の軍人である。1916年、ニューメキシコ州でフランシスコ・ヴィリャの軍によって多数のアメリカ人が殺害された事件を受け、アメリカはパーシング准将率いるヴィリャ懲罰隊を遠征させるが、このときパットンはパーシングの副官に抜擢されていた。この戦いで彼はヴィリャの護衛隊長だったカーディナスを殺害し、一気に名を上げることになる。その後、アメリカは第一次世界大戦に参戦し、ヴィリャ討伐を断念するが、パットンは大尉に昇進し、パーシングと共にフランスの戦場へと向かう。ここで彼は戦車隊を指揮し、負傷しながらも野戦のみで多数の戦果を上げ、大佐にまで昇進したのだった。

その後、パットンは少将として第二次大戦にも参加し、北アフリカやイタリアなど地中海沿岸部で戦車隊を指揮している。彼はここでも傑出した戦略で、ドイツ軍を相手に華々しい活躍を遂げたのだった。その後、部下への暴力事件によって一時的に失脚するが、続くバルジの戦いで再び戦果を上げ、第二次大戦の英雄の1人となる。だが戦後、記者団の前で民主党に対する侮辱発言を行ったことで左遷され、トルーマン大統領との確執も噂されるなか、書類上の実体のない部隊の指揮官にされてしまう。そして1945年、彼は再起することなく交通事故で帰らぬ人となるのだった。

パットンはインディがヴィリャの部下たちと酒場でたむろしていたところへ突如乱入し、ヴィリャの右腕だったカーディナスを挑発、素早い銃裁きで彼を射殺して見せた。その後、パットンはヴィリャ軍の動向をパーシング司令官に報告しに向かう。

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